広岡達朗による、野村克也批判
12月8日発売、新刊『正しすぎた人 広岡達朗がスワローズで見た夢』の見本が届く。一昨年の春から、『Number Web』で始めた広岡達朗連載。当初から書籍化を意図していて、「すべての取材が終わったら、一からすべて書き下ろそう」と決めていた。
編集者の理解もあり、僕の希望通りに、自由に執筆させてもらい、320ページを超える作品となった。1978年、スワローズを初優勝に導いた広岡達朗は当時46歳。そして現在、彼は93歳になった。本書で意図したのは「46歳と93歳、両方の広岡達朗を描くこと」だった。
それはすなわち、かつて「名将」と謳われた広岡と、炎上騒動の当事者として、しばしば「老害」と批判されることの多い、現在の広岡を描くことでもあった。以下、本文より抜粋したい。
「九三歳の広岡」に、自身の若い頃、「四六歳の広岡」について振り返ってもらう。
執筆中、私の頭の中にはスワローズのユニフォームを着てスッと立っている精悍な広岡と、「足腰が弱くなったから歩くのが辛い」と、自宅のリビングでテレビを見ている背中を丸めた広岡の姿が、交互に浮かんでは消えていた。
「四六歳の広岡」は常に颯爽としていた。難事が降りかかったり、不測の事態に直面したりしても決して動じることなく、理路整然と理知的に対処に当たっていた。一方で「九三歳の広岡」は耳が遠くなったこと、足腰が弱くなったことを嘆きつつ、何度も、何度も同じ話を繰り返していた。それでも時折、こちらがハッとするようなことをズバリと口にしていた。
現在の広岡の言葉を通じて、気がつけば私は過去と現在、昭和と令和を行ったり来たりしているような感覚、時空を超えた旅をしている錯覚を覚えていた。
ここに書いた思いは、見本が完成し、発売を間近に控えた今も何も変わっていない。「46歳の広岡」は、常に怜悧で、厳格で、そして正しかった。一方、「93歳の広岡」は、耳が遠くなり、記憶が曖昧になり、話が嚙み合わず、なかなか思うようなやり取りができなかった。
それでも、昭和と令和を行きつ戻りつしながら、「広岡の言葉」を拾い集めていく作業はとても難しく、同時にとても刺激的だった。
取材は本当に楽しかった。印象に残っているエピソードはたくさんあるが、広岡達朗による、三原脩、野村克也批判は激烈だった。本書では、7ページにわたってこの件について触れているが、それは広岡の理想とする野球観を描くために必要な文字量だった。少しだけ、本書から引用したい。
広岡にとって、野村克也はどんな存在なのか?
時折、彼が口にする「野村批判」を受けて、そんな質問をしたことがある。その答えは簡潔だ。
「私はまったく認めていない」
現役時代、監督時代を比較すると、いずれも広岡よりも野村の方が数字では勝っている。その点を指摘すると、さらに口調が強くなる。
「プロは結果がすべての世界だよ。そんなことは私もよくわかっている。しかし、だからと言って、何をやってもいいというわけではない。正しいことを、正しい方法で取り組まなければいけない。正しくないことをやって手にした結果をほしいとは私は思わない」
あるいは、失礼を承知で、「野村さんに嫉妬をしているのですか?」と尋ねたこともある。広岡の言葉はそっけない。