復帰した山田哲人について

球団公式来場御礼メールより
山田哲人が神宮球場に帰ってきました。いきなり四番、そして猛打賞。試合には敗れたけれど、ひと筋の希望の光が見えたような気がしました。
前回の配信でも書いたように、先週のドラゴンズ戦後に「復帰したばかりの山田哲人について書こう」と思っていました。ファンにとって待ちに待ったスーパースター「ミスタースワローズ」の帰還だったからです。書きたいことはたくさんあったのだけれど、なかなか考えがまとまらず、結局、「山田についてはまた今度にしよう」と考えました。
復帰初戦となった22日の試合はデーゲームでした。この日僕は倉敷から岡山に移動し、朝からインタビューを行っていて、リアルタイムで試合を見ることはできませんでした。まずはスポナビで結果だけを見て、帰りの新幹線で改めて試合映像を確認しました。
(……うーん、まだまだ本調子にはほど遠いな)
これが率直な感想でした。スイングスピードもそう、一塁への疾走もそう、かつてのイメージとはかけ離れた姿がそこにはありました。二軍調整中の映像も見ていたけれど、「えっ、このタイミングで一軍に上げるの?」と、少々意外な感じを受けたのも確かでした。つまり、「まだまだ本調子にはほど遠い」と思っていました。
この日、たまたま見たSNSでは、山田選手の状態を称して、「まるでサントリードリームマッチのようだ」という投稿がありました。あるいは「かつて山田哲人だった人」というコメントもありました。それは、とても辛辣で、とても残酷な言葉でした。
すごく悲しい表現だけれど、このコメントを見て、一瞬でも「確かに、その通りだよな……」と思ってしまった自分が、もっと悲しかった。東京に戻る新幹線の中で、僕は重苦しい気分のまま、缶ビールをあおっていました。
ここ数年の山田選手のコンディションが万全であるとは思っていません。だからこそ、「体調さえ戻れば……」と一昨年、昨年も思っていました。でも、20代からずっとトップランナーとして駆け抜けてきた彼には相当なダメージが蓄積されているのは間違いありません。
そうなると、彼が本調子ではないのはコンディションの問題ではないのかもしれない……。考えたくないけれど、長年の酷使からくる衰えなのかもしれない……。考えたくないけれど、ついついそんな思いが頭をよぎってしまったのも事実でした。
気がつけば、「山田哲人について考えること」は、僕にとって、「覚悟を必要とする取り組み」となっていました。以前、このニュースレターにおいて「100の我慢」という表現をしたことがあります。
この記事の中で、僕はこんなことを書いています。
僕は常々、心の中に「100の我慢」を持っています。「100の我慢」とは何か? これはある特定の選手にだけ発動する考えです。期待感あふれる逸材だけに、発動される思いです。
つまり、こんなことです。
「この選手は、近い将来、必ずスワローズを背負って立つスター選手になる。だから今は何事も経験だ。少々のミスも、将来への布石だ。三振してもいい。失点してもいい。エラーしてもいい。ミスをしてもいい。今は我慢のときだから。でも、この我慢がいつか必ず大輪の花を咲かせてくれるはずだ。だから今は我慢、我慢。辛抱、辛抱……」
才能あふれる選手たちに対して、僕はずっとこんな思いで見守っていました。近年で言えば、廣岡大志選手に対して、まさにそう思い続けていました。彼が三振をするたびに、「100の我慢」は少しずつ減っていき、やがて「90」になり、「80」になっていきました。それでも、豪快なホームランや華麗な守備を見るたびに、その数字は少しずつ回復していきました。
そして、僕にとって、この「100の我慢」の筆頭こそ、高橋奎二投手でした。
一方、「100の我慢」の対極にある選手もいます。あえて言葉にするとするならば「無限の慈愛」とでも言えばいいのでしょうか。詳しく説明するならば、こんな選手のことです。
どんなに結果が出なくとも、どんなに苦しくもがいていようとも、何があっても、どんなことがあっても、とことん最後まで「応燕」し続ける、見守り続ける選手。なぜなら、長年にわたって僕らに、本当に幸せな時間を与えてくれたから。夢と勇気を与えてくれたから。
こんな選手に対して、僕は「無限の慈愛」を持っています。例えばそれは若松勉であり、伊藤智仁、池山隆寛であり、最近で言えば青木宣親であり、川端慎吾です。さらに、現役選手で言えば村上宗隆、石川雅規、そして山田哲人です。
そんなことを考えていたときに、「あること」を思い出しました。
