20年ぶりに母と一緒に神宮観戦した夜
昨日は個人的に忘れられない一戦となりました。実は昨日、およそ20年ぶりぐらいに母と一緒に観戦しました。昭和20年、終戦直後に生まれた母はもうすぐ80歳となります。小学生の頃、何度も母に神宮に連れてきてもらいました。今から45年も前のことです。
幸いにして、80歳を目前にしても健康そのものなので、8月の猛暑を避けた9月、久々に母を誘って神宮で観戦することにしました。千駄ヶ谷駅で待ち合わせをして、東京体育館、国立競技場を通って神宮球場に向かいます。先ほど「健康そのもの」と書いたけれど、その足取りは実にゆったりしています。
60代の頃の母は、僕でも追いつかないほどのスピードで歩いていたけれど、確実に「年齢」というものを感じた瞬間でした。母にとっては久々の神宮。球場外周、レンガ色のアーケードが見えてきた瞬間、母は「あぁ懐かしい。変わってないね」と言いました。
もう何年も、年間60試合以上神宮球場に通っている僕にはない感慨でした。
(そうだよな、母にとっては20年ぶりなんだもんな……)
僕自身も感慨深く、しみじみとその言葉を聞きました。一塁側内野スタンドに腰を下ろした瞬間、再び母は「あぁ懐かしい。晶一が子どもの頃、何度も来たもんね」と言いました。この言葉を聞いて、「そうだよな、父と母に連れられて何度も神宮に来て、そしてそれが生涯の趣味、何ならお仕事になっているんだもんなぁ」と、再びしみじみしてしまいました。
以前、『いつも、気づけば神宮に』(集英社)という本を出版しました。この本は、僕にとって初めての「ヤクルト本」です。若松勉、松岡弘を筆頭に、関根潤三、野村克也、伊藤智仁、宮本慎也、石川雅規、館山昌平、山田哲人などなど、30名近くの関係者にインタビューをして成立した本です。
この本の「脇役の系譜」という章には、僕が初めて神宮球場を訪れた場面があります。以下、引用します。
物心つく前に、神宮球場や後楽園球場でプロ野球の試合を見たことがあるらしいのだけれど、残念ながらまったく記憶がない。
僕が人生の中でハッキリと認識している「最初の試合」は、初めてヤクルトのファンクラブに入った80年4月の対阪神タイガース戦だ。記録を調べてみると、それは4月26日の試合だということがわかった。
生涯、この日の興奮と感動を忘れないだろう。
僕は70年5月生まれなので、もうすぐ10歳になるという頃だった。当時は小学校4年生。この日は土曜日で午前中は小学校に行ったのかな? その辺はよく覚えていないけれど、家族全員で自宅のある千葉から神宮へ行き、帰りはそのまま新宿の京王プラザホテルに宿泊したことはよく覚えている。
家族みんなでの外泊という非日常的な一日だった。そして何よりも、この日初めて自分の意志で観戦したヤクルトの試合が最高すぎた。
試合を決めたのは、入団6年目、24歳の誕生日を目前に控えていた角富士夫だった。9回一死二塁のチャンスで打席に入った角は、阪神・池内豊から、レフトスタンドに消える、打った瞬間にホームランとわかる劇的な一発で勝負を決めた。
この試合があったからこそ、僕はヤクルトが大好きになり、その後もプロ野球を見続けることになった。そして、大人になってもファンクラブに入り続け、現在でも神宮に足を運ぶ人生を過ごすことになった。
人生のターニングポイントというものがもしもあるとしたら、80年4月26日、プロレス的に言えば、通称「ヨン・テン・ニーロク決戦」こそ、僕にとってのその日なのだろう。野球のことを語るのに、わざわざプロレスで語る意味がないことはよく理解している。
もしも、この日の試合が目も当てられないクソゲームだったとしたら、僕はここまでプロ野球に夢中になっただろうか? 現在にいたるまでヤクルトを愛し続けていられただろうか? そういう意味では角富士夫こそ、僕の人生の恩人なのである。
これを受けて、角さんに会いに行き、この日のお礼を告げる場面に続いていきます。
昨日の試合を見ながら、僕は80年4月26日のことを思い出していました。当時の僕は10歳になる直前の9歳。当時の母は34歳でした。現在の石川雅規投手よりも10歳以上も若いのです(笑)。山田哲人選手とは1歳差です。グラウンドで躍動している選手たちはまだ生まれていません。確実に月日は流れているのだと感じました。